量子コンピュータがマーケティングリサーチを変える?最新論文を徹底解説

Research Paper Review — Journal of Innovation & Knowledge, 2024

量子コンピュータは
マーケティングをどう変えるのか

最新論文「Quantum computing for market research」が示すデジタルマーケティングの次なるフロンティア

SNS・EC・動画など無数のチャネルから日々膨大なデータが生まれる現代。消費者行動を正確に捉え、的確な戦略に結びつけるには、従来のコンピュータでは限界が見え始めています。この論文は「量子コンピュータ」がその突破口になりうるかを、209本の論文分析と8名の専門家インタビューで検証しました。

紹介論文

Quantum computing for market research

著者:Laura Saez-Ortuño, Ruben Huertas-Garcia, Santiago Forgas-Coll, Javier Sánchez-García, Eloi Puertas-Prats

所属:バルセロナ大学、ハウメ1世大学(スペイン)

掲載:Journal of Innovation & Knowledge, Vol.9, 2024|CC BY-NC-ND 4.0

論文を読む(DOI: 10.1016/j.jik.2024.100510)

Research Method

3つの研究アプローチで全体像を描く

Study 1

書誌計量分析

209本の論文を定量的に分析し、主要な国・機関・著者のトレンドを可視化

Study 2

コンテンツ分析

最も影響力の高い30本の論文内容を質的に分析し、8つの研究テーマを抽出

Study 3

専門家インタビュー

第一線で活躍する8名の専門家に現状認識と将来展望を聞き取り

Basic Knowledge

そもそも量子コンピュータとは?

古典コンピュータ

0
or
1

「ビット」は常に0か1のどちらか一方。1つずつ順番に計算する。

量子コンピュータ

0 & 1

「キュービット」は0と1を同時に保持。多数の状態を並列処理できる。

どれくらい速いのか?── Google「Sycamore」の例

2019年、Googleの53キュービット量子プロセッサ「Sycamore」が示した圧倒的な計算速度:

量子コンピュータ

200

従来のスパコン

1万

ただし現在は「NISQ時代」

NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum)= ノイズの影響を受けやすい中規模量子コンピューティングの段階。現行のデバイスは5〜数百キュービット。難問を完全に解くには数百万キュービットが必要とされています。

Study 1 — Bibliometric Analysis

209本の論文が示す研究の全体像

209

分析論文数

11,926

総被引用数

30+

参加国数

研究トレンド:3つのフェーズ

2008–2010年|黎明期

年間5本未満、引用数も100件以下。研究はまだ限定的

2011–2019年|基盤構築期

出版数は少ないが高被引用論文が集中。2018年はわずか5本で3,205回引用。理論的基盤が確立

2020–2024年|急成長期 現在

出版数が爆発的に増加。2023年には52本が出版。ここ5年で本格始動した新しい研究領域

研究をリードする4つの地理的クラスター

🇺🇸

アメリカ圏

+カナダ、スペイン

59

🇨🇳

中国圏

+インド

23

🇬🇧

イギリス圏

 

12

🇦🇺

豪州圏

 

6

機関別トップ:IBM TJ Watson研究所が論文数8本・被引用数2,701回で突出。Caltech の John Preskill 氏は2本で3,158回引用と圧倒的な影響力を持つ。

Study 2 — Content Analysis

高被引用論文30本から浮かぶ8つのテーマ

歴史的発展

量子物理学からNISQ時代への軌跡

基礎概念

重ね合わせ・量子もつれの仕組み

アルゴリズム設計

新アルゴリズム開発とエラー訂正

データ分析

非構造化データの処理と分類

応用量子
コンピューティング

化学・医学・ビジネスへの応用

ビッグデータ

大規模データの収集・分析・可視化

機械学習

SVM・教師あり学習の量子強化

人工知能

AI×ビッグデータ×量子の統合

マーケティングとの接点:データ分析・ビッグデータ・機械学習・AIはデジタルマーケティングの中核技術。これらが量子コンピューティングで強化されれば、市場調査の精度と効率が飛躍的に向上する可能性があります。

Study 3 — Expert Interviews

8名の専門家が語る現在地と未来

BSC-CNS、富士通国際量子センター、Multiverse Computing、Qilimanjaro Quantum Tech 等の研究者・経営者にインタビュー

現状認識:「まだ初期段階、しかし投資は加速」

企業の収益に直結する量子コンピュータの活用事例はまだ存在しないという認識で専門家は一致。一方で戦略技術としての投資は急増しており、「90年代後半のインターネットブームに似た状況」と評する声も。

マーケティングへの間接的影響

  • 最適化問題の高速解決 ── 広告配信の最適化やマーケティングロジスティクスの効率化
  • 消費者データの個別モデリング ── 購買傾向の予測精度を飛躍的に向上
  • 確率付き複数ソリューション生成 ── より精度の高い意思決定支援

実用化の時間軸

楽観論は「10年以内」、慎重論は「スケーラビリティ・エラー率の壁からより長期」。専門家間でもコンセンサスは未形成。

人材育成の課題

全専門家が量子人材の不足を指摘。教育カリキュラムの整備が急務。大企業がスピードで大学を凌駕している現状も。

Future Research Themes

マーケティングはこう変わる:6つの将来テーマ

1

消費者行動分析の量子アルゴリズム

量子の並列処理で消費者の嗜好を細かくモデル化し、購買パターン予測を根本から変革する

2

リアルタイム市場シミュレーション

異なる戦略に対する市場の反応をリアルタイムでテスト・予測し、急変する市場で競争優位を確保

3

量子ML × 市場セグメンテーション

膨大なデータから微細な市場セグメントを迅速に特定し、従来見落としていたニッチ市場を発見

4

量子耐性暗号でデータ保護

量子コンピュータによる暗号解読リスクに備え、消費者データを守るポスト量子暗号を研究

5

社会科学への学際的インパクト

量子物理学者×データサイエンティスト×社会科学者の協力で新しいデータ収集・分析手法を創出

6

量子コンピューティングインフラ整備

安定キュービット、スケーラブルな量子プロセッサ、使いやすいプログラミング環境の構築

Domestic Trend

日本での関連動向

博報堂DYホールディングス

2023年、blueqat社と協力し量子ゲート型コンピュータの広告・マーケティングデータ活用に向けた実証実験を実施。データフュージョン(分散データの統合)を量子アルゴリズムで実現する試み。

プレスリリース

リクルート × D-Wave

旅行情報サイト「じゃらんnet」の宿表示最適化に量子アニーリングを活用。人気度と多様性を両立する順序を算出し、従来手法比で約1%の売上向上を確認。

プレスリリース

Key Takeaways

この論文から学ぶ3つのポイント

今すぐは変わらない

技術はまだ初期段階。企業の収益に直結する活用事例は存在しない。過度な期待は禁物。

中長期的には大変革

BCG予測で年間4,500億ドル超の市場規模。消費者分析・セグメンテーション・広告最適化が変わりうる。

今から準備を始める

研究動向のウォッチ、基礎知識の習得、学際的コラボレーション。「Quantum Ready」な姿勢を。

デジタルマーケティングの世界では、SNS、EC、動画プラットフォームなど無数のチャネルから日々膨大なデータが生まれています。消費者の行動を正確に捉え、的確な意思決定につなげるためのデータ処理は、もはや従来のコンピュータでは限界が見え始めています。

そんな中、次世代の計算技術として注目されているのが量子コンピュータです。金融や創薬の分野で話題にのぼることが多い量子コンピュータですが、実はマーケティングリサーチ(市場調査)の分野にも大きな変革をもたらす可能性が指摘されています。

本記事では、2024年に学術誌「Journal of Innovation & Knowledge」に掲載された論文 "Quantum computing for market research"(Saez-Ortuño et al., 2024) を紹介しながら、量子コンピュータがマーケティングの未来にどのようなインパクトを与えうるのかを解説します。

出典:Saez-Ortuño, L., Huertas-Garcia, R., Forgas-Coll, S., Sánchez-García, J., & Puertas-Prats, E. (2024). Quantum computing for market research. Journal of Innovation & Knowledge, 9(3), 100510.
https://doi.org/10.1016/j.jik.2024.100510(CC BY-NC-ND 4.0、オープンアクセス)

論文の概要:3つの研究アプローチで量子コンピュータ×マーケティングの全体像を描く

論文の基本情報

タイトル Quantum computing for market research
著者 Laura Saez-Ortuño, Ruben Huertas-Garcia, Santiago Forgas-Coll, Javier Sánchez-García, Eloi Puertas-Prats
所属 バルセロナ大学(ビジネス学部・数学&CS学部)、ハウメ1世大学(ビジネス管理・マーケティング学部)
掲載誌 Journal of Innovation & Knowledge, Vol.9, 2024
DOI 10.1016/j.jik.2024.100510
ライセンス CC BY-NC-ND 4.0(オープンアクセス)

研究の目的と3つのStudy

この論文は、量子コンピューティングがビジネス、とりわけマーケティングリサーチの課題にどのように貢献しうるかを明らかにすることを目的としています。著者らは次の3つの研究(Study)を通じて、現在の研究状況の把握から将来予測までを体系的に行っています。

  1. Study 1:書誌計量分析(Bibliometric Analysis) ── 209本の論文を定量的に分析し、研究のトレンドや主要な国・機関・著者を明らかにする
  2. Study 2:コンテンツ分析(Content Analysis) ── 最も影響力の高い30本の論文の内容を質的に分析し、主要な研究テーマを抽出する
  3. Study 3:専門家インタビュー(Expert Interviews) ── 量子コンピューティングの第一線で活躍する8名の専門家に、現状認識と将来展望を聞く
Study 1 書誌計量分析 209本の論文を定量分析 Study 2 コンテンツ分析 上位30本の質的分析 Study 3 専門家インタビュー 8名の専門家へ聞き取り 論文の3段階アプローチ 現状の俯瞰 テーマの深掘り 未来の展望

そもそも量子コンピュータとは?マーケター向けにわかりやすく解説

従来のコンピュータとの違い

私たちが普段使っているコンピュータ(古典コンピュータ)は、情報を「0」か「1」のビットで処理しています。一方、量子コンピュータは量子ビット(キュービット)を使います。キュービットは量子力学の「重ね合わせ」という性質により、0と1の両方の状態を同時に保持できます。

さらに、複数のキュービット間で「量子もつれ」という現象が起きると、一方のキュービットの状態がもう一方に瞬時に影響を与えます。これらの性質を組み合わせることで、量子コンピュータは特定の問題を古典コンピュータよりも圧倒的に高速に処理できるのです。

古典コンピュータ vs 量子コンピュータ 古典コンピュータ 0 or 1 ビット:常にどちらか一方 1つずつ順番に計算 nビット → n通り 量子コンピュータ 0 & 1 重ね合わせ もつれ キュービット:両方を同時に保持 多数の状態を並列処理 nキュービット → 2ⁿ通り

具体的にどれくらい速いのか

論文中でも紹介されている印象的な事例があります。2019年、Googleが開発した53キュービットの量子プロセッサ「Sycamore」は、ある計算問題をわずか200秒で解決しました。同じ問題を従来のスーパーコンピュータで解こうとすると、約10,000年かかると推定されています。53キュービットは約10の16乗(1京)の計算状態空間に対応しており、従来のコンピュータとは次元の異なる処理能力を持つことがわかります。

NISQ時代とは

ただし、現在の量子コンピュータはまだ発展途上にあります。論文で頻繁に登場する「NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum:ノイズのある中規模量子コンピューティング)」という用語は、現在の量子コンピュータがノイズ(誤差)の影響を受けやすく、大規模な計算にはまだ対応できない段階にあることを示しています。現在市場に存在する量子コンピュータは5〜数百キュービット程度であり、難問を完全に解くには数百万キュービットが必要とされています。

Study 1:書誌計量分析でわかった研究の全体像

Study 1では、2008年から2024年までにWeb of Science(WoS)に登録された209本の論文を対象に、量子コンピューティングとビジネスに関する研究の定量的な傾向が分析されています。

研究のトレンド:2019年以降に急加速

論文の出版数を年ごとに見ると、明確な3つの段階があることがわかります。

  1. 2008〜2010年(黎明期):年間の出版数は5本未満で、引用数も100件以下にとどまる
  2. 2011〜2019年(基盤構築期):出版数はまだ少ないものの、高被引用論文が集中。たとえば2018年にはわずか5本の論文が3,205回も引用されている。この時期に量子コンピューティングの理論的基盤が固められた
  3. 2020〜2024年(急成長期):出版数が爆発的に増加。2023年には52本が出版されるなど、このテーマへの関心が一気に高まった
量子コンピューティング×ビジネス 論文出版数の推移(2008–2024) 0 10 20 30 40 50 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 2021 2022 2023 2024 黎明期(2008–2010) 基盤構築期(2011–2019) 急成長期(2020–2024)

図:量子コンピューティング×ビジネスに関する論文出版数の推移。2020年以降に出版数が急増している。論文Table 1のデータをもとに作成。

つまり、量子コンピュータのビジネス応用に関する学術研究は、ここ5年で本格的に動き出したばかりの新しい研究領域なのです。

国別の研究動向:4つのクラスターが形成

論文数と被引用数の分析から、量子コンピューティング研究をリードしている国が明らかになりました。

順位 論文数 被引用数 引用/論文
1 アメリカ 59 6,828 115.73
2 中国 23 1,802 78.35
3 インド 13 105 8.08
4 イギリス 12 520 43.33
5 カナダ 11 451 41.00
6 スペイン 10 26 2.60
7 台湾 7 163 23.29
8 ドイツ 7 109 15.57
9 オーストラリア 6 1,477 246.17
10 スイス 6 143 23.83

VOS viewerによるクラスター分析では、研究の国際ネットワークが4つの極に分かれていることが判明しています。

量子コンピューティング研究の4つの地理的クラスター アメリカ圏 🇺🇸 USA カナダ スペイン 59本 / 6,828引用 中国圏 🇨🇳 中国 インド 23本 / 1,802引用 イギリス圏 🇬🇧 UK 12本 / 520引用 豪州圏 🇦🇺 AUS 6本 / 1,477引用

図:論文の書誌カップリング分析により特定された4つの研究クラスター。論文Fig.7のデータをもとに作成。

機関別:IBM TJ Watson研究所が突出

機関別の分析では、IBM Thomas J. Watson Research Centerが論文数8本・被引用数2,701回と群を抜いています。IBM所属の研究者は著者ランキングの上位を多数占めており、Jay M. Gambetta氏やAbhinav Kandala氏(各6本)などが中心的な役割を果たしています。

被引用数あたりで見ると、カリフォルニア工科大学(Caltech)のJohn Preskill氏が2本の論文で3,158回の引用を獲得しており、圧倒的な影響力を持っています。Preskill氏の代表的論文「Quantum Computing in the NISQ era and beyond」(2018年)は、この分野における最重要文献の一つです。

Study 2:最も影響力のある30本の論文から見えた8つの研究テーマ

Study 2では、被引用数が多い上位30本の論文を対象にコンテンツ分析が行われました。2名の研究者が独立して抄録を読みコーディングを実施し、Cohen's κ係数が0.80以上と高い一致度が確認されています。

その結果、量子コンピューティングとビジネスに関する研究は、以下の8つのテーマに分類できることが明らかになりました。

カテゴリ テーマ 概要
歴史的発展 量子コンピューティング研究の進化 量子物理学革命からNISQ時代に至る発展の軌跡。現在のデバイスは5〜79キュービットでまだ実験段階
基礎概念 物理学・量子力学・計算科学の接点 キュービットの重ね合わせ・量子もつれを利用した計算加速の仕組み。古典コンピュータとの根本的な違い
アルゴリズム設計 新アルゴリズムの開発と既存手法の改良 量子エラー訂正(QEC)コードや、オープンソースの「Qiskit」を活用した堅牢なアルゴリズム設計
データ分析 データの性質に起因する課題 非構造化データの処理や二値分類器の性能向上など。現時点では限定的な応用にとどまる
応用量子コンピューティング 各分野への応用 化学・医学・物理学に加え、デジタル製造、物流、サイバーセキュリティなどビジネスへの直接応用
ビッグデータ 大規模データ処理への貢献 データの収集・保存・分析・可視化の課題に対し、情報の「もつれ」を解きほぐす新手法の提案
機械学習 ML手法の量子による強化 SVMの性能向上、量子状態空間を特徴量とした教師あり学習、古典と量子のハイブリッドアプローチ
人工知能 AIの新たな可能性 AI・ビッグデータ・量子コンピューティングの統合による、パーソナライズされたエビデンスベースの意思決定

注目すべきは、8つのテーマの多くがマーケティングリサーチと密接に関わっていることです。データ分析、ビッグデータ、機械学習、AIはいずれもデジタルマーケティングの中核技術であり、これらが量子コンピューティングによって強化されれば、市場調査の精度と効率が飛躍的に向上する可能性があります。

Study 3:8名の専門家が語る「量子コンピュータ×マーケティング」の現在地と未来

Study 1・2で得られた知見をもとに、著者らは量子コンピューティングの最前線で活躍する8名の専門家にインタビューを行いました。対象者には、バルセロナスーパーコンピューティングセンター(BSC-CNS)の研究者、富士通国際量子センター、Multiverse Computing、Qilimanjaro Quantum Techなどの研究者・経営者が含まれます。

現状認識:「まだ初期段階だが、投資は加速している」

専門家の間では、量子コンピューティングの開発はまだ初期段階にあるという認識で一致しています。ある研究者は、企業の収益に直結する問題を量子コンピュータで解けた事例はまだ存在しないという趣旨のコメントをしています。一方で、戦略的技術としての期待から投資は急増しており、別の専門家は90年代後半のインターネットブームに似た状況だと表現しています。

マーケティングへの間接的な影響の可能性

量子コンピューティングはまだマーケティングリサーチに直接適用された例はありませんが、専門家たちはその間接的な影響力に注目しています。

  • 複雑な最適化問題の解決:広告配信の最適化や、マーケティングロジスティクスの効率化(巡回セールスマン問題のような古典的最適化問題の高速化)
  • 膨大なデータベースの管理:消費者データの個別モデリングを可能にし、購買傾向の予測精度を飛躍的に向上させる可能性
  • 多数の潜在的ソリューションの生成:それぞれの確率付きで複数の解を同時に提示し、より精度の高い意思決定を支援

実用化の時間軸:専門家の間でも見解が分かれる

量子コンピュータの実用化時期については、専門家の間でコンセンサスが得られていません。楽観的な見方では今後10年以内に一部のビジネス応用が始まるとされる一方、慎重な見方では量子コンピュータのスケーラビリティやエラー率の課題を指摘し、より長い時間が必要だと考えています。

論文では、すべての専門家が量子コンピューティングの将来的な機会には同意しているものの、開発にどれくらいの時間がかかるかについてはコンセンサスが少ないと結論づけています。

人材育成の課題

全専門家が共通して強調したのが、量子コンピューティングの専門人材の不足です。現在の教育カリキュラムには量子力学やその応用が十分に含まれておらず、大学・研究機関での新しい教育プログラムの整備が急務であるとされています。ある専門家は、大企業が研究の方向性と資金提供のスピードで大学を上回っている現状を指摘しています。

論文が示す6つの将来研究テーマ:マーケティングはこう変わる

論文の結論部分では、量子コンピューティングのマーケティングへの応用に向けた6つの有望な将来研究テーマが提示されています。これらはまだ実現前の研究課題ですが、量子コンピュータがマーケティングの何を変えうるのかを理解するうえで非常に参考になります。

量子コンピューティング × マーケティング:6つの将来研究テーマ 1 消費者行動分析の量子アルゴリズム 量子の並列処理で消費者の嗜好を 細かいレベルでモデル化し、 購買パターン予測を根本から変革 2 リアルタイム市場シミュレーション 異なる戦略に対する市場の反応を リアルタイムでテスト・予測し、 急変する市場での競争優位を確保 3 量子ML × 市場セグメンテーション 膨大なデータから微細なセグメントを 迅速に特定し、従来見落としていた ニッチ市場を発見 4 量子耐性暗号でデータ保護 量子コンピュータによる暗号解読リスクに 備え、消費者データを守る ポスト量子暗号の研究 5 社会科学への学際的インパクト 量子物理学者×データサイエンティスト ×社会科学者の協力による、 新しいデータ収集・分析方法論の創出 6 量子インフラの整備 安定したキュービット、スケーラブルな 量子プロセッサ、使いやすいプログラ ミング環境の構築 出典:Saez-Ortuño et al. (2024) の Discussion セクションをもとに作成

図:論文が提示するマーケティング応用に向けた6つの将来研究テーマ。

日本での関連動向

本論文は主にヨーロッパの研究チームによるものですが、日本国内でも量子コンピュータのマーケティング応用に向けた動きは始まっています。

博報堂DYホールディングスの実証実験

博報堂DYホールディングスは2023年、blueqat株式会社と協力して量子ゲート型コンピュータの広告・マーケティングデータ活用に向けた実証実験を実施しました。マーケティングにおけるデータフュージョン(分散データの統合)を量子アルゴリズムで実現する試みです。

参考:博報堂DYホールディングス プレスリリース(2023年7月)

リクルートの量子アニーリング活用事例

リクルートコミュニケーションズはD-Wave Systemsの量子アニーリングコンピュータを活用し、旅行情報サイト「じゃらんnet」の宿泊施設表示の最適化を行った事例が知られています。人気度と多様性を両立する表示順序を量子コンピュータで求めたところ、従来手法に対して約1%の売上向上を確認しています。

参考:D-Wave Japan プレスリリース

これらの事例は、量子コンピュータのマーケティング応用がまだ実験的段階にあることを示しつつも、実際のビジネス成果につながる可能性を示唆しています。

まとめ:マーケターは今、量子コンピュータとどう向き合うべきか

Saez-Ortuñoらの論文から得られる最も重要なメッセージは、次の3点に集約できます。

1. 量子コンピューティングは今すぐマーケティングを変えるわけではない

技術はまだ初期段階であり、実用的なビジネス応用は限定的です。過度な期待を持つべきではありません。専門家たちも、現時点で企業の収益に直結するような量子コンピュータの活用例はまだ存在しないという認識で一致しています。

2. しかし中長期的には大きな変革をもたらす可能性がある

専門家たちは一様に量子コンピューティングの将来的なポテンシャルに楽観的であり、BCGのレポートによれば市場規模が今後10年で年間4,500億ドルを超えると予測されています。消費者行動の分析、市場セグメンテーション、広告最適化といったマーケティングの中核領域は、量子コンピュータの恩恵を受ける可能性が高い分野です。

3. 今から準備を始めることが重要

研究動向のウォッチ、量子コンピューティングの基礎知識の習得、学際的なコラボレーションへの参加など、マーケターとしてできることは少なくありません。論文が示すように、量子コンピューティング研究はここ5年で急速に拡大しており、マーケティングへの本格的な応用が始まったときに出遅れないための「Quantum Ready」な姿勢が求められています。

量子コンピュータの世界は日進月歩です。本論文は、マーケティング関係者がこの分野の全体像を把握するための優れた出発点となるでしょう。

論文情報・参考リンク

紹介論文

タイトル Quantum computing for market research
著者 Laura Saez-Ortuño, Ruben Huertas-Garcia, Santiago Forgas-Coll, Javier Sánchez-García, Eloi Puertas-Prats
掲載誌 Journal of Innovation & Knowledge, Volume 9, Issue 3, 2024, 100510
DOI https://doi.org/10.1016/j.jik.2024.100510
ライセンス CC BY-NC-ND 4.0(オープンアクセス)

参考リンク

編集者:

中川 晃次

再生ファンド傘下の複数企業にて、マーケティングディレクターとして事業再生を牽引。戦略立案から実行まで一貫して手がけ、ECサイトにおいては売上前年比150%成長を5年連続で達成した実績を持つ。現在はマーケティングSaaS「tovira」の開発に加え、BtoB領域のマーケティングコンサルティングを通じて、企業の持続的な成長を支援している。

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